−2014年
Art TOP10− by
Sweeperさん 1位
遠藤彰子展 @上野の森美術館 (1位以外は順位なし) 遠藤彰子さん、知らなかった。こんなにパワフルな絵画をどうやって描くのだろう。しかもロジックやエッシャー的な遠近法も見事に日本に適合させている。2014年はいろいろと美術展行きましたがこの展示会はまさにノックアウトでした。BEST1はこれです。 1位
遠藤彰子展 @上野の森美術館 ・岸田吟香・劉生・麗子
知られざる精神の系譜 展@世田谷美術館 ・菱田春草展@東京国立近代美術館 ・パブロ・
ピカソ―版画の線とフォルム―@町田市立国際版画美術館 ・ウィレム・デ・クーニング展@ブリヂストン美術館 ・マリー・ローランサン展―女の一生―
三鷹市美術ギャラリー ・バルテュス展 Balthus: A
Retrospective @東京都美術館 ・ヴァロットン―冷たい炎の画家
@三菱一号館美術館 ・没後五〇年 松林桂月展‐水墨を極め、画中に詠う@練馬区立美術館 ・華麗な花の饗宴 『フローラの神殿』@町田市立国際版画美術館 ・ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展 ・ミレー展@府中市美術館 (received
'15.1.24) Sweeperさんのプロフィール...故・ウクレレ前田さんのブログ『裏声喫茶』の常連さん。14年続けて『なんでもTOP10』に参加いただき、こっちのほうでもすっかり常連さん。どうもありがとう!
・岸田吟香・劉生・麗子 知られざる精神の系譜
展@世田谷美術館
・菱田春草展@東京国立近代美術館
・パブロ・
ピカソ―版画の線とフォルム―@町田市立国際版画美術館
・ウィレム・デ・クーニング展@ブリヂストン美術館
・マリー・ローランサン展―女の一生―
三鷹市美術ギャラリー
・バルテュス展 Balthus: A Retrospective @東京都美術館
・ヴァロットン―冷たい炎の画家 @三菱一号館美術館
・没後五〇年 松林桂月展‐水墨を極め、画中に詠う@練馬区立美術館
・華麗な花の饗宴 『フローラの神殿』@町田市立国際版画美術館
・ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展
・ミレー展@府中市美術館
あとの順位は順不同としました。
菱田春草、松林桂月、そして岸田劉生という、日本の異なる優れたものに触れられたのが良かったです。
凄いです、このほとばしる描き込みの多さ。キリコとエッシャーの幾何学的な構図と戦後日本の様子を掛け合わせさらにシャガールの虚無感とピカソの虚ろな人間像をMIXして渦巻く情念を描き切っている、回顧展。小学校2年の絵が参考までに飾られていたがやはりこういう人の絵は普通の絵じゃなかった。。。それも必見ですね。絵画だけでなくブロンズ(何故か猫が多かった)や新聞小説の挿絵もやっているらしい、知らなかった。。。
何点も飾られた大作(つまり天井に届きそうな大きな絵画のこと)が圧倒的なスケールで迫ってくる。絵がその中に描かれている人物たちが生命を持って此方に迫ってくるようで少々気分が悪くなるくらいな迫力でした。2013年の作品が何とも今の日本を象徴するかの絵で今後評価が出てくるのだと思います(「葡萄の熟れる頃」)。
劉生の作品は大阪で回顧展でかなり見た。でもそこで見れなかったものがあった、彼が育った銀座界隈の水彩画というのは見ていなかったと思う。端正な絵が数点あった。麗子像はすべて揃っていたわけではない。16歳の麗子像はいわゆるデフォルメされた「麗子」像とは違って端正な顔、しかもやや面長な表情で此方が勿論素顔に近いのでしょう。その麗子さんの絵も飾られていた。小さいころの絵はどこかその「麗子」像を引きずったかのような表情を描いていてその「影響力」が測り知れる。劉生の絵も本の挿絵や友人へのはがきに「麗子」像を随所にちりばめて自分のアイコンのように描いていたのが面白かった。
父の吟香は画家ではなく実業家だったのでここで取り上げるのは少し無理があったのかもしれない、とはいえなかなか興味深い歴史をみて物語としてはかなり面白い展示でした。
36歳で亡くなったそうだ。このころの画家は早くして亡くなった人が多いのですね。
王昭君(おうしょうくん)の物語を語らせる構図と丸みを帯びた構図
黒き猫 の、やや擬人化したかのような性格をもった猫
白き猫 の、黒き猫よりふっくらとした猫のふわっとした感覚
白牡丹 の、淡く薄い花びらが絶妙である
富士 は、ほとんど大観にあった絵かもしれない
五月雨(春雨)の、しびれるくらいの雨の描写がいい
海辺月夜 も、こんな絵はどうしたら描けるのだろうというくらい達観した境地を思わせます。
日本画と洋画を7対3(8対2かもしれない)ぐらいでブレンドした感覚というと安っぽい言い方だけど、この春草はそんな言い方をすると分かりやすいかもしれない。
そう、ピカソは版画も結構作品を残しているのだ。ピカソの色彩は凄いものがあるが、版画はそれほど色彩が目立たないのだけどそれでも曲線はデッサンはまぎれもなくピカソそのもののエネルギーとオーラが漂っている。そうピカソってかなりの作品に言えるのだけど凄いオーラを発している。版画、正確にはエッチングは色付けは人の手に委ねることが多いのでそのパワーが薄まることがあるのだけど、この人の場合は別格である。同じ版で何回も刷り直して改版していく工程も見れて芸術家の仕事を触れるような感覚すらありました。
オランダに生まれてNYに渡ってもしばらくは仕事がなかったからペンキ職人をしていたそうです。今回の展示は回顧展というほどの量ではないけど、ジョン・アンド・キミコ・パワーズ・コレクションというNYのMOMAにあるコレクションとかぶるものがあるという。思いっきりデ・クーニングという展示ではなかったので大きな期待をすると肩透かしかもしれない。しかしこの人の作品はなかなかまとめてみる機会がないのでそれでも貴重な機会であることは間違えがない。「女性像」の作品がテーマなのですが、ほとんどそれに見えない、デフォルメしすぎていてもう原型をほとんど留めていないのがほとんどです。ここでは技量とか云々でなく、デ・クーニングの作品から発せられるエネルギーを捉まえてみよう、感じてみようというモードにならないとこのデ・クーニングは楽しめない、ポロックもそうですが。
いままでローランサンというとふわっとした女性絵画というサロン画家という印象があったのですが、ここで見れたのはほぼ回顧展的な内容で理解が出来ました。彼女はキュービズムからスタートして人物を具象化してさらに人形のような色合いを加えていったということがここでようやく分かりました。1点や2点ではなかなか彼女の評価できないそういう意味ではこの展示はとても興味深かった。
「夢見るテレーズ」はとても考え抜かれた構図です、少女の足元に居る猫が皿をなめているのが描かれているけどこの猫は雄でインビな象徴なのだと思う、とってもスキャンダラス!と言われるのが理解できる。女性はどう思うのだろうか?「美しい日々」も同様に思わせぶりな構図で気持ちと言い訳を並立させているのが分かる。「決して来ない時」は猫がこの位置に居るはずが無いそんな不自然な構図を作っている。「鏡の中のアリス」のエロスを覗き見しているのは我々見る側であるという設定もお前も同罪だよ、というこれまた見る側を揺さぶる絵です。
回顧展ということもあり習作からスケッチまでかなりその側面に向かい合えるのが興味深い、が彼の独自の側面を解明するには彼があまりにも複雑な志向を持った人だったようだ。節子夫人はバルテュスが60過ぎのときの奥さんでその当時はモデルでバルテュスの絵に登場している。この部分は会場に居た多くの日本女性にどう捉えられるのだろうか?
ヴァロットン、ほとんどなじみのない画家である。
立体感を敢えて排している絵もある、つまり歪んでいるのだ。心象風景と物語性を備えた画風は好き嫌いが分かれそうだ。つまり心の中を見透かされているかのような描かれている人物の気持ちが見る側に入り込んできてその苦悩や煩悩を共有してしまいそうなそういう絵柄が多いのだ。「冷たい炎」とはよく言い当てている、冷ややかで浮ついていない絵の底にあるものは心模様なのかもしれない。晩年の絵が随分とグラフィックな色使いでしかも戦争についてはっきり「No」といいそれをする人間の愚かさをしっかり訴えている。そう芸術家は作品で時代を映し訴える鏡でもある。
本展は、30年ぶりとなる回顧展とのこと。なるほど確かに初めてかもしれない。
「春宵花影」が素晴らしい、これを見るだけでもここに来る価値がある。淡い墨の濃淡で光と風とその空気を描き写真以上にリアルにそのものに向き合えているこの絵は誰が見ても感嘆すべき絵である。あれだけの薄い墨を使って失敗の許されないタッチを描き切れるまでには相当の鍛錬があったのだと思う。「秋園」の絶妙な配置構成がよく練られたバランスの極み、その曲り加減と色彩の配置、これが、本物が持ち合わせる妙です。
植物図鑑『フローラの神殿』。その編者ロバート・ジョン・ソーントン
この版画そのものは当時の名手がそれぞれ手掛けたのだけど、編集者の力なのでしょう、一貫した作風で花(花弁)を描写し版画に落とし込んでいる。花はなまめかしい、動物の顔の表情のようにそれぞれ表情を持っている、版画の名手の主観と花が本来持っているなまめかしさを描写したところにこういう素晴らしいコレクションが生まれるというものだ。
印象派を魅了した日本の美 @世田谷美術館
フェノロサ、モース そして岡倉天心がボストン美術館のコレクションに奔走したという、今回のコレクションは見ごたえがありました。世田谷美術館だけでなくこのあと京都、名古屋と巡回するだけあってしっかりとした構成でした。影響与えた日本のものに対して影響を受けたものを並置することでどれくらいの影響度なのかがよくわかる。
それにしても思うのだけど、どうしてここまで露骨に影響を受けました、という痕跡を自分の作品に残したがるのだろうか?日本人の感覚だと「ハシタナイ」と思うのだけど、この影響についてはビッグネームが連なっているから「よしとする」という考えが一般的だけど、敢えて問いただしてみたい。
「こんなに露骨にコピーしていいのですか?」
影響に対して敬意を表してということなのでしょうか?
こんな事を言ってはいけないのでしょうね、美術ファンが怒るのでしょうから。
クロード・モネ《ラ・ジャポネーズ(着物をまとうカミーユ・モネ)》は、着物の下の武士の模様が夫人に抱きついているかのようなリアリティがある、その効果は狙ってなのだろう、きっと(トリックかもしれない)。
エミール・ガレの陶器があったが、この美しさはもうジャポニズムと括るには余りに進化していると思うのだけどね(だから参考程度の1点の展示なのかもしれない)。
ゴッホ、ルノワール、そしてモネらの印象派の人達だけでなく、ボストン美術館で見たアメリカ人にも影響を与えているというのがとても興味深い化学反応でと累々と繋がる系譜が発見出来たのはこの展示の面白さでもありました。
市制施行60周年記念 生誕200年 ミレー展 愛しきものたちへのまなざし
ジャン=フランソワ・ミレーというと
落ち穂拾い
種をまく人
という印象なのですが、今回の展示では彼の生涯のキーになる部分を展示して、ジャン=フランソワ・ミレーという人物を掘り下げている展示になっています。若いころに描いた人物画、いずれも物憂げな目をしていてメランコリックな絵画という印象をもちます。最初の奥さんを描いた3点が秀逸で悲しげなそして抑制された感情をもっていて強く訴える。
彼は農場を多く描きますが、人物画を描いたように顔の表情は描かずその代わりに動きや顔の傾き体の線、そして背景、農場で働き一日の終わりに見る闇が来る前の赤く淡い空、これらはいずれもメランコリックで疲れた生活と彼らの人生や物語を感じさせるがあります。晩年は風景を描いています。その農場の人たちと向き合うのも疲れてしまったのか、そういう変遷を見ることが出来ます。この展示で興味深かったのは委託で描かれた神話の絵が2点展示されているのですが、これがどうも作風から浮いているのですね、商売として完全に割り切って描いたんだろうな、と思わせるもの、しかし技量はミレーのものそのもでもあります。府中市美術館館長がかなり印象派に造詣深い人でこの「演出」は興味深いものでした。一貫しているのはメランコリックな絵画、この展示はそれを強調するものでした。