−2015年
映画 TOP10− by
Sweeperさん 1位 独裁者と小さな孫 (1位以外は順位なし) モフセン・マフマルバフ監督の久しぶりの映画はいろいろな意味で考えさせられる現在進行形の映画でした。 1位 独裁者と小さな孫 ・あの日の声を探して ・バードマン
あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) ・草原の実験 ・セッション ・マッドマックス
怒りのデス・ロード ・サンドラの週末 ・ホワイト・ゴッド
少女と犬の狂詩曲 ・サンバ ・おみおくりの作法 (received
'16.2.1) Sweeperさんのプロフィール...故・ウクレレ前田さんのブログ『裏声喫茶』の常連さん。15年続けて『なんでもTOP10』に参加いただき、こっちのほうでもすっかり常連さん。どうもありがとう!
・あの日の声を探して
・バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)
・草原の実験
・セッション
・マッドマックス 怒りのデス・ロード
・サンドラの週末
・ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲
・サンバ
・おみおくりの作法
映画は世界の動きと連動している、そして普遍的な映画であるほど感銘を受けるものですね。
アメリカ映画の大味な物語の続編にウンザリですが、見たい映画はまだまだあって見きれていないのが残念です。
モフセン・マフマルバフ監督作品
モフセン・マフマルバフ監督はイランでなかなか映画を撮らせてくれないらしい。それなのに、これほど政治的な題材は無いでしょう、「独裁者」なのだから。 以前観た「カンダハール」の冒頭のシーンも忘れがたい(松葉杖の人たちを俯瞰で見せるシーン)同様、今回の映画もショッキングなくらいです。独裁者の老人が町のひかりを電話一本で消したりすることができるシーン、あまりにもフザケた独裁者ですがその途中でクーデターが勃発するのが何とも皮肉なシーンでもある。やがて独裁者は孫と国内を姿を変えて逃げ回ることに。こんな状況の映画は見たことが無いです、コメディとしても展開できる物語だけどあくまでもイランか中央アジアあたりか、乾いた土地にある決して裕福で無い国の姿を逃走するところから風景として入れて、一方では孫のそれまでの記憶を交差させてコントラストを作って、孫の純真過ぎるくらいな世間知らずなところがこの孫だけでなくいろいろな側面からの凝縮されたアイコンとして凝縮されていて今までに見たことが無いくらいの独創的な映画になっている。やがて浜辺で見つかって民衆に「死刑を」と引きずり回されるが、ある男が「「この男を殺してもまた同じような人間が出てくる、生かせ。この男を殺すなら俺も殺せ」「ではどうすればいいのか?」「この男を。。。」 孫は既にこの独裁者がなすべきことをくみ取っているかのように浜辺で踊り始める。
ミシェル・アザナビシウス監督作品
「アーティスト」のミシェル・アザナビシウス監督の次が、コメディでなくシリアスな映画。
チェチェン紛争、チェチェンの人たちがテロを行ったとしてチェチェンにロシアが軍事介入して一般市民を巻き添えにした事は報道で知ってはいたが、その情報は断片的でどこに真実があるのかわからなかった。既にエリツィンから大統領を引継いだプーチン政権のもとでやはり情報統制が敷かれていたのでしょう。映画はそんな戦場が舞台。
国連や人権団体が抗議しても無力な現場。そんな中でロシア軍が侵攻してきた村で父親と母親が殺される、そんな光景をビデオで撮影している撮影者は何者なのか?両親を殺された少年は小さな子供を背負って村を出て近所に子どもを預けて難民キャンプにたどり着く。しかしあまりにショックで言葉を失っていた。何十年も前の話ではなくてほんの10年ちょっと前の話なのに相変わらず戦争の本質は変わらない。子どもの心は真っ黒になり心を閉じてしまう。
「絵を描きましょうね、家に色を塗ってみようね、親に色を塗ってみようね」と保護した女性が言うが心を閉ざした少年はまともに書くことができない、黒く塗りつぶしてしまう、あの真っ黒な心模様が強い印象を残す。あれは映画の創作でなく実際に会った事例なんだろうなと思わせるシーンでした。
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督作品
マイケル・キートンを主演に迎えて過去にスーパーヒーローを3回演じた落ち目の俳優という設定、バットマンでなく、バードマンというタイトル、面白そうだなという予感は最後まで裏切らない。アントニオ・サンチェズの即興的なドラミングが意図的な長回し(的な)映像にはまってくる。明らかに物語を把握してのドラミングは映画の進行役ともいうべきリズムを与えている。延々と連綿と続く舞台裏の人間模様、舞台は何故かレイモンド・カバーの原作の舞台という地味な内容をあえて選ぶ。手持ちカメラのような動きが突然宙に浮くかのようなシーンになったりまるで夢の中にいるような、舞台劇を見ているかのような(舞台裏の舞台劇という設定)、そして切れ目なしの映画進行はどこか追い詰められてもう後がない主人公にそのものに心理近い視点で映画を体験できる。またリセットして新たな人生を歩むことが可能なのか?でもそれは甘い期待だけ、ということを揶揄しているわけでもない。
ラストシーン、娘の視線が上向きなのがやはりバードマンだからか?いやこれも主人公の妄想の一部なのか?
アレクサンドル・コット監督作品
映画は饒舌な台詞で語られる映画とそうでないものがある。映像で語る、という映画は多いと思う。この映画は映像で語るのみでしかもそのテクニック的に語っている訳でもない。淡々とロシアのとある平原地帯にあるそこの周りに一軒しかない家に住む男と娘(これも映画が進行していくうちに分かってくる)とその周りに出てくる数人の人たちだけ。分かりやすくしかし説明的でない映画は現代でない少し前の時、おそらくはソ連邦時代の話と分かってくる。この長閑な平原で何も起こらないはずなのに。。。
舞台はカザフスタンあたりで実際に起きていた事象とのこと、と監督が語っています。若い男女間の三角関係やその負後の恋愛を語るものかと思いきやそれを飲み込んでしまう、その映画のタイトルにもなっている実験とは?
饒舌に語っていないようでこの映画に込められているものがズシリと入り込んでくる。
原題:Whiplashは、あまり知られていないアンサンブル用の曲で有名らしい、変拍子で、キメも多い曲ですが、まあ知らないけど。
TV俳優で有名なJ・K・シモンズ、よく○○長などのボスの役が多いですが、今回は音楽学校の指導教員役。
鬼教官として圧倒しているこの役柄、まあ考えてみればよくある役がらでもある。そう別に音楽もの、もしくはJAZZものという枠にとらわれずに「根性もの」、そう「愛と青春の旅立ち」のようなくじけない若者という映画なんですね、だからあんなのあり得ないとか実際にあんなのいないという言い分は分かるけどそれだと映画を楽めないよね。そういうものだ、作りものだよね、でも確実にJAZZ、しかもドラマーのエネルギーが伝わる、面白い、そしてラストは痛快で爽快感、打ちのめされた者が打ちのめそうとするリベンジ感あふれる映画でした。
オリジナルの「マッドマックス」を撮ったジョージ・ミラーが自ら再起動させたこの映画、絶賛されているので見に行った。
一言でいうと、「ベン・ハー」の騎馬戦シーンが全編ある、アドレナリン全開な映画! CGも勿論使っているけど砂漠でのシーンはリアルに撮影されていて異次元というか2時間を全くの別の場所に見る側を持って行ってしまう強引な世界観がこの映画にあります。物語ってあんまり重要でない、スピード感に浸れる、しかしこのスピードに酔ってしまう人はこの映画を楽しめないでしょうね。
物欲、支配者、底辺の人々、争い、闘争、エネルギッシュでカルト映画にもなりうる映画でした。メルギブはこの圧倒されるエネルギーをこなせなかったのでは。主役交代は納得でした。
ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督作品
病気で休業中で復帰したいマリオン・コティヤール扮する2児の母が直面するのは、同僚らが決めた「ボーナスか復職を認めない」こと。
みんなお金が欲しい、それでも復帰に賛同する人、頼んでもお金が必要と協力を拒否する人
一人ひとり週末に同僚の家に回って理解と再投票で復職に1票入れてほしいとお願いする。。。
やがてこの女性が休職していたのは「うつ病」だったからと台詞から分かる。
くじけそうになるのは見る側も一緒である。「うつ病」から復職する勇気を出す怖さってそれはそうならないと分からないでしょう。
母は殆ど化粧気なしで服装もあまり気にしていない雰囲気。
美人女優のマリオン・コティヤールが全然美しく見えないしそこに凄くリアリティを感じてしまった。
そして最後、母が会社を出て敷地から離れていくところでこの兄弟監督はぱっと暗転して終わらせてしまう。
でも、彼女の生活はまだまだ続く、どう続くのだろう?
ハンガリー映画だそうだ、舞台は特定はされてないないけど言葉がそうなのでハンガリーなのでしょうきっと。
人気のない都会の街並みを少女が自転車で疾走するあとからたくさんの犬たちが走っていくシーンの冒頭から何だこの映画は?という尋常でないシーン(CGではない)。 少女は雑種の犬を面倒みたいのにそうできないまま別れてしまったあとでその犬が意志をもって人間に復讐を始めるところが怖い(本物の犬たち、何十ものの犬たちが同時に街中を走るという時点ですごいことだけど)。さて暴走する犬たちを止めることが果たしてできるのだろうか?という回答があるようなないような。犬たちに対して人間がしていることがそれほどひどいようにも思えない(ように見える)が、やはり収容所的な施設に入れられた時点で犬たちのの気持ちがブチ切れてしまった、それは人間の理解を超えた野生の怒りなのでしょうか。僕らには少女が持つトランペットを持ち合わせていないので分かち合えるところには無いのだろうか?
エリック・トレダノ、オリビエ・ナカシュ監督作品
サンバという名前なのに踊れない主人公
冒頭シーンはサンバで結婚式でケーキ入刀のあとそれがキッチンへ、そこで主人公はキッチンで皿洗い。。。のワンカット映像で見せ切る。
「最強のふたり」の製作陣が主演を再びオマール・シーにしてのドラマ。 オマール・シーはどこか勝新太郎に似ている。体が大きくて冗談も言い憎まれ口も叩くけど憎めない愛すべき人。 まさに移民問題、滞在許可が切れた移民たち、もしくは不法で入国してきた人たちが日雇い労働で食いつないでいる現実をリアリティを持って描かれている。燃え尽き症候群(切れてうつ病になった、と台詞でもある)のシャルロット・ゲンズブールの役(このカウンセリング担当は治療の一環だったのか、そういう制度があるのか?フランスは?羨ましいな)は現代の人の疲れてしまった人たちには共通した感情かもしれない。ふとした偶然の出会い、でもそれをつなぎとめる、持続させるのはやはり偶然だけでは無理、そこに求める心の触手が伸びるのでしょう。
人生、何度でも再起動出来るんですよ、ちょっとした勇気とそれを支援してくれる愛があれば。
じわじわと最初のシーン(誰も立ち会いが無い葬儀と埋葬)からする、いわゆる死についてしかも孤独死という厳しい現実をもったテーマですが、後半じわりじわりとしてきます。それこそ「えーそんな。。。」な結末に用意されたシーンとは?深く考えさせてくれる映画です。
あるイギリスの民生係は男性独身、その仕事は孤独死した人々の葬儀や埋葬の手配をする仕事。
朴訥に生真面目に仕事に向き合うが、孤独死した人が自身のリストラ前の最後の仕事になり、その人の関係者を探しに奔走する。 実際にそういう仕事をする人がいて、物語を紡いでいったそうですが、黒澤明作品の「生きる」とちょっとだけ似ているかも、いや似ていないかな。 普遍的な人間のテーマに触れた気がします。
原題のSTILL
LIFEは静物画の意味、風景や美意識ということはこの映画には関係しないのでむしろ心模様の風景ということかもしれない。。。